January 13, 2011

虚妄の実体

形あるものは実体がないのと同じことであり、
実体がないからこそ一時的な形あるものとして
存在するのである。

従って、形あるものは即ち実体なきもので、
実体がないことは即ち形あるものとなっている。
心の四つの働きの場合も全く同じことだ。

この世の中のあらゆる存在や現象は実体がない。
元々、生じたとか滅したとかいうこともなく、
汚れたものでもなく、浄らかなものでもなく、
増えることもなく、減ることもないのである。

実体がないということは、形あるものはない。
感覚も、思想も、意志も、知識もない。
眼、耳、鼻、舌、身体、心などの感覚器官もない。
形、音、香り、味、触覚、心象などといった
それぞれの感覚器官に対する対象もない。

あらゆるものを受けとめる知覚から意識までの
あらゆる分野も(最初から)ないのである。

さらに、何らかの悟りに対する無知もないし、
無知がなくなるということもない。

------

以上は『般若心経』の一部意訳ですが。

なるほどなー。何か深いなー。
やっぱり観音様は賢かったんだなー。

…とも思えますが
実はこれって、何もいってないのと同じじゃないの?
とも思えるんですよね。

色即是空。

人間が心を持って、何かを思ったり考えたり、
何かを感じたり知ったりすることに、
生物として生存する、子孫を残すという目的以外に
意味があるとしたら、それは一体なんだろうか?

今は哲学と呼ばれる概念の黎明期から、
人はずっとこんなことを考えてるんだと思うけど、
その回答は一向に見えてこない。

そういうことを追求していくこと自体不毛でしかない。
でも、それを言い出すと、学問と呼ばれるものは
ほぼ全部不毛ということになってしまう。

肝要なのは、実は結果ではなく、過程なのですかね。

何か方向を定めて、それを知ろうと努力する活動。
それが学術であり学問ということになると思うけど、
どの学問も最終結論は出ていないですよね。

むしろ結論してしまったら、その学問はそこで終了。

結論が出る前に次の課題をつくって学問を延命する。
そんなことをずっと繰り返してるような気がする。

何か新たなこと、未知なことを発見し続ける、
そういう欲求が人間の本性にあるということで、
その“未知”というのは今後も尽きる心配はない。

冬の寒空の下、トボトボと駅に向かって歩きながら
なぜか突然「何かを知るって、どういうことなんだろう?」
とか思ったんですよね。

知れば満足。

でも、知ったといっても、それは完全にそれを知った、
理解した、掌握した、征服したという状態には非ず。

見えているものが全てではない、ということは、
何となく“虹”を見ている気分なんですよね。

虹というのは、実体がない。

空気中の水滴を光が通過して屈折し、
いくつかの波長の光に分離して七色に見えている
といのが虹の正体。

でも、虹というそれは確かに認識可能な現象です。

でも、見えるのに実体はない。
見えている虹(の場所)に近づこうとしても近づけない。
近辺の水滴をいくら観察しても、それは虹ではない。

世界とか宇宙とかもそういうものなのかなと。

見えているものが真実ではないとわかっていても、
やっぱり見えているものが認識の中心にあるわけで、
実際、それが人間が真実に近づけない理由だろうと。

結局、頑張って何かをいっても、
それは何もいわないのと同じことなんだ、みたいな。

でも、何もないのは不安だから、
何か「こうかな」とか「こうだったらいいな」という話をつくり、
それを心の落としどころにする、というのが宗教か。

その意味では、哲学も科学も同じですね。


……どうでもいいけど、
「ニノ国」は、DSじゃなく、Wiiとか据置き機向きでしょ。
あんな分厚い本、持ち歩けません。

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October 31, 2010

仮面×名声×人間の変質

人はみな仮面をかぶって生きている。でなきゃ、そいつは獣だ。
……けれど、考えたことはあるかい?
どっちが、本当の自分だろう……ってね。

これ、とあるゲームの登場人物の言葉なんですが、
(多分どっかで言い古されてる言葉だとも思いますが)
これはいろいろ考えるところのある言葉なんですよね。

自分で意識している仮面もあるだろうし、
実は自分でも気づいていない別の側面もあると思う。

…というような哲学はとりあえず置いといて、
人が名声を得たり立場が変わったりすると
それだけで人間自体が変わることも多々ある。

外にそう見せなければいけない、ということが
その人の性格自体もそう変えてしまうと。

それって、芸能人とかスポーツ選手とか議員とか
いわゆる有名人はまさにそういう典型なんじゃないか。

国会中継とか見てると、どうもみんな煮え切らないのよね。
なのに、すごくエラそう。

27日の内閣委員会とか、酷かった。

どう酷いかというと、百聞は一見にしかず。
衆議院は下記のサイトで誰でもいつでも閲覧できます。

衆議院インターネット審議中継
(shugiintv.go.jp)

で、今回見ていただきたいのは
10月27日「内閣委員会」の「小泉進次郎(自由民主党・無所属の会)」
の質疑の部分です。

主に答弁しているのは蓮舫大臣。

面倒なら、こっちでもいいです。
【ニコニコ動画】平成22年10月27日衆院内閣委...前編
【ニコニコ動画】平成22年10月27日衆院内閣委...後編

まず思ったのは、「蓮舫って、こんな人だった?」

私の中の彼女のイメージは「熱湯コマーシャル」です。
(いつの時代だよ)

いや、例の事業仕分けとかで悪評を轟かせてるし、
専門知識もなしに、そもそも世間知らずが政治やっても
ロクなことにならんよ、とは、ずっと思ってたんですがね。

何このエラそうな態度。何この上から目線。

質問者の小泉氏が節目節目に「ありがとうございます」と
礼儀をつくしてるのに、蓮舫氏のあの対応はないですよ。

それでも、答弁がちゃんとしてれば良いんだけど
全然答えになってないし、そもそも発言の中身がない。
(要は、言っても言わなくても同じというような答弁)

熱湯コマーシャルから、どういう経緯でああなったのか。

こないだ見つけたローリング・ストーンズのキース氏のコメントが
(本当はミック・ジャガー氏を批判するコメントなんだけど)
まさにあの彼女にドンピシャという気がしました。

The Rolling Stones キース、名声の恐ろしさを語る
(vibe-net.com)

以下、コメント部分を引用。

俺の音楽人生の中で、名声はドラッグよりも危険なものだ。たいていの人は良い性格をしているのに、名声の大きさによっては、まったくの別世界に行っちまう。最終的に、自分は奴らを元の世界に戻すことはできないって悟るだろうね。名声にとらわれると、自分のすることに間違った判断を下すし、自分が何者なのか勘違いしちまうんだ。そして他人の扱い方もな

それもまた表層的な仮面の1つなのかしら。

でも、そっちが支配的になるということは、
実質、それが本当のその人(自分)ということになるんだろうなぁ。

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June 08, 2010

雲のかなたに

数年前に買ったDVDレコーダーが遂に壊れたと思ったら、
メディアを安物に変えたら普通に録画できた。

ああ、最近はメディアが高性能化してきていて、
古い機械がついていけなくなってるのかな。


人間は、仕事をしたいのか、したくないのか。

そりゃしたくないに決まってますよ。

でも、仕事しないと生きていけないから
仕方なしに仕事をしているんですよね。

でも、そうじゃないかもしれないと思うこともある。

やりたくない仕事も、やってるうちに
それを最後までやらないと気がすまなくなる
というか、やめられなくなる。

少しは休めよ、といわれても仕事をする。

実はそれをやりたかったのか。

仕事をやり遂げないと、他に迷惑がかかるから?
途中でやめても、いつかは最後までやらないといけないから、
それなら今やった方が良いと思うのか?
自分に与えられた責任を果たさないとダメだから?
家族のために頑張らないといけないから?
いい加減なヤツと思われたくないから?
仕事ができるヤツと思われたいから?

どれもその通りのようで、いや、そうじゃない気もする。

大人としての責任、社会人としての常識に遵う必要がある、
そうしないと人として認められないからそうする、
確かにそういう理由もないことはないと思うんだけど、
実際仕事をしているときにそんなことを考えてるかというと
どうもそうでもない心理状態になってる気もする。

いや、多分、自分のやりたいことが仕事になってる人なら、
その仕事に生甲斐を感じたり楽しさがあったりするだろうし、
そういう仕事に没頭するというのは解り易いんです。

スポーツ選手とか、芸術家とか、そういう人たちね。

まぁ、それも仕事になっちゃうと、それを夢見ていた頃とは
また違った感覚ではあるんでしょうけど。


本質的にMなところがあるんですか。人間って。

科学技術の発達によって、
人は自分の手足をなるべく動かさなくてもすむような方向へ
文化も生活環境も変わりつつあると思うんだけど、
その状態でリアルな体験をしたいという逆の欲求もある。

ゆっくり休みたい、のんびり過ごしたいといいつつ、
どちらかというと忙しい毎日を送りたがってるような人もいる。
必ずしもそうする必要はないのに、いつの間にかそうなる。

世の中の遊びといわれているもののほとんどは、
自分の身を、ある種の逆境に置くことだったりする。


そこに何か共通点を見るとしたら、
それが終わったとき、達成したときの快感があるということか。
辛ければ辛いほど、達成感も大きいと。


身も蓋もないこといっちゃうと、不毛だよね。


ひどいな!何かを達成する。良いことじゃないですか。

つまり、結局、人間の生きる意味みたいなものも、
何かを達成することだったりするわけですよ。

達成するものがなきゃ、つくれば良い。


結局、世の中がいくら便利になっても、
人間は自分の仕事を探しては増やす生き物なんですな。

だが、それがいい。

あんまり突っ込むと、日常生活がゲシュタルト崩壊します。
考えちゃダメです。考えちゃったけど。


全然関係ないけど、
最近、ニコ動の実況プレイを見るのが楽しい。Mばっかです。

だが、それがいい。

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November 16, 2009

こないだ買ったばかりの液晶ディスプレイなのに、
もう1ドット線が入ってやがんの。

ま、別にいいけどね。やっぱ安物はいかんすね。


晩秋恒例、電車で物想いに耽るシリーズ。
(何だそりゃ)

最近の私の中のトレンドは“個”です。

“個”ってのは、複数ではなく、単一のそれです。

でも、複数という概念がなければ
個という概念もまたないのではないか?とか
いや、個があるからこそ複数の概念があるのだとか
いろいろあるが、そんな話はとりあえずどうでも良い。

よくないけど、話が進まないので。

“個”というのは、本当にあるんだろうか?
というのが主題であります。

そんな大仰な。

いや、実際、孤独、孤立、単一などといってみても、
みんな物質でできているという前提に立つならば、
どの個も根本は同じようなものであるはずなんですよ。

同じような、というのは、
当然、犬と猫は違うし、人と人でも違うんでしょうけど、
そういうマクロなものは違っても、ミクロな部分、
つまり、素粒子やそれ以下(があるとすれば)まで
どんどん分解していくと、みんな同じなのです。

それらは、当然孤立して存在することはできなくて
お互いに何らかの影響を及ぼしあっている。
その結果として、マクロな物体なり物質なり、
生物なり、無機物なり、星なり、光なり、エネルギーなり
そういうものどもが立ち現れているということ。

何というか、宇宙も地球もひとつの世界の中の事象で、
喩えるなら、海に浮かぶ孤島なり大陸なりは
それぞれ海によって隔てられていて
いかにも“個”として存在しているかのようだけど、
その海が干上がってみれば、実は一枚岩という感じ。

何でこんなことを考えるに至ったかというと、
ウトウト居眠りをしていて、うっと気づいた自分が
一瞬自分でないものに感じた、というか、
いや違うな、何でこの自分に戻ってきたのか?
みたいな感覚になった瞬間があったのですな。

すぐに現実的な(正気の?)意識が支配したんだけど、
今の感覚はちょっと面白いぞ、と。

別に狂ってないですよ。多分。

自分、というのも、個ですよね。
で、この自分というものほどおかしなものはないですよね。

自分にとって、それに代わるものはない。
どうしても代替が利かないものであると同時に、
もし代替したら、きっとそれは自分ではなくなる。

仮に、全く同じ物質構成の人間がもうひとりいたとしても、
それは自分ではなく他人であろうと予想される。
これは何も同じ背格好の人間でなくとも、
他人というものに対して同様に疑われる問題です。

他人は他人で、自分ではないもの。

でも、それは本当にそうなのか?ということ。

自分にとって、世界は自分の中の認識であり、
それ自体が自分という意識の中に立ち上がっているもので、
つまり、自分にとって世界=自分なわけです。

生まれたばかりの子供は、そう感じているんじゃないか。

人は成長すると、だんだん分別というものがついてきて、
自分と、そうでないもの(他者)があるということを
徐々に理解し始める。

のだけど、その他者というのは何者なのか。
そもそも本当に自分以外のものなのか、ということを
ほとんど疑問に感じないことの不思議さです。

後天性の学習による認知であるといえど、
ほとんどアプリオリに近い感覚という気がする。

人は、なぜ分別がつくようになるのか。
それは人以外も同様なのか。

そもそも、自分って何だろうか。
自分がいなくなることがあるだろうか。

そんなことは自分には想定できないし、
いなくなったら世界が終わってしまうのかどうかなんてのも
実のところどうもよくわからない。

物理的には、生物というのは一生を終えると
別の物質に分解され、大抵は別の物質に再構成される
なんてことは、わかっちゃいるわけですが。

しかし、大体世の中自分の思うようにはいかないもので、
やっぱり他人も、世界も、とりあえず自分ではないんだろう。
こう書くと、やっぱり頭おかしいみたいだな。

でも、何でこんな原材料費1000円もしないような有機物の塊に
自分、私、みたいな意識があるんだろうと考えると、
変な気分になってくるわけで。


ちなみに、最初に書いた1ドット線が入っちゃったLCDは
23型ワイドで18,800円の品(多分、同等品の中では安い方)。
保証期間内で修理はタダなんだけど、送料は自腹。

本体は当然、送料すら“私”より高いんだが!
(そんなものはいくらでもあるけどネ)
送るべきかそのまま使うべきか。

実使用上特に問題ないレベルのドット抜け線なんだけど、
新品てことで初期不良っぽいのが悔しいんだよなぁ。

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February 23, 2009

無用の用

始まりと終わりがあるなんて誰が決めたんだ。

思うに、全部巡り巡って元に戻ってる
というのが、いろいろな哲学における難問の
最終的な解答になってるんじゃないだろうか。

と、そんなことを、今朝目が覚めたときに思った。


何か、眠りと目覚めの間ぐらいの状態って
変な精神状態になりませんか。

今朝は、あーなんで自分って自分なのかなぁ
と、そんなモードでした。

そこから始まって、

自分以外も自分なんじゃないか?
そもそも自分は自分じゃなく他人じゃないか?
いや他人というのは自分という主観に対する
客観的な存在に位置づけられているから、
そんな分離って意味ないんじゃね?
それでも自分に押し込められてる自分というのは
枠にはめられて自由を奪われてる状態の
拘束具をつけられたエーテルみたいなものじゃないか?
つまり全体の一部であり、実はそもそも自分は
イコール全体であり、その感覚の主体として
この自分という枠が一時的に設けられているのか?
だから生きないといけないのか?
生きることが義務なのか?苦労しないといかんのか?
苦労するのが人生なのか?起きないとだめなのか?
今日も仕事いかないとダメ?起きなきゃダメ?

チクショーッ!(ここで起きた)


年々、自殺者が増加しているらしいですね。

そんな報告を見る度に(不謹慎ながら)思うんだけど
これって何てアポトーシス?

ちなみに、地球上の人口は
19世紀初め(1800年あたり)は約10億人、
20世紀初め(1900年あたり)は約20億人、
その程度だったのね。

それがもう今や60億人を突破して
間もなく70億人に達しようとしている。

増え過ぎ。どんな加速度だよ。

これだけ増える人間という生き物の繁殖力たるや
自分も同じ生物種ながら恐るべしってとこなんですが。

この増加傾向も自然の成り行きなのだからして
もう人間自身の手に負えるものでもないのかな
って気がしてくる。

あとは自然選択を待つのみですかな。

してみると、
世界中で戦争やらテロやらが絶えないのって、
これも大きな淘汰の流れの一部なのかなぁ
とも思えてきたりもする。

てか、人間のそういう習性というか行動パターンによって
あまりに急激に増えることが自己抑制されているのか。

んー、好き勝手書いてますが
自分でも問題発言なのは重々承知しております。

もし自分が作家か漫画家だったら、
悪役にこういうセリフいわせて
正義役に否定させるような主張だったり。

ちなみに、作家や漫画家の本音って
大抵は正義側より悪役側の言に出てるよね。

いや、人が軽々しく死んで良いとか
そんなこといってるんじゃないですよ。

実は人間自身の手でどうにかなる流れではないのかも?
と、そんな気がするという話。


そもそも、人間はなぜいるのか。


…根本的過ぎました。

こういいかえよう。

人間は何のために地球上に存在するのか。

まだ漠然としてるな。

世の中の存在というのは何か意義がある。
意義があるからそこにある、という立場にたったときに
人間というオブジェクトはどう見るべきなんだろうか?
ということなんだけど。

例えば、自動車。

自動車というのは、人を乗せて走るための機械です。
即ち、人を運ぶ、というのが車の意義であり役割であり、
人を運ぶという使命を持って製造されているわけです。

つまり、人を運ぶために、この世に生まれた。

エアコンは温度調節するためのもの、
冷蔵庫は食品を冷やすもの、
ガスコンロは調理をするためのもの、
ペンは書くもの、紙は書かれるもの。

じゃあ、人は?

人に限らず、地球上に存在する動植物には
そもそもそういう目的ってないですよね。

地球上に限らない。

この自然の中にあるものには、
その役割とか意義とか目的とか
そんなものはない。

ない、ように見える。あるかもしれないけど。

少なくとも、人が考える要不要でいう意義というものは
特にないんですよね。

上であげた何か意義や役割が明確なものは、
人間の手によってつくられた“道具”です。

それは、人間がつくったものだから
その意義や目的がわかりやすい。

というか、人間がその必要があってつくったのだから
人間の理にかなった存在ということになるわけです。

そうでないもの。非人工的なものというのは、
そういう方向で意義を見出そうとすること自体が
無意味で無駄ってこと。

それは人間自体を含む。

だから、人間は
人間でない何者かから必要とされて存在しているのか
なんて考えるのは意味ないってことになるんじゃないか。

もしかしたら、そんな誰かがいるかもしれないけど
個人的には、そんなものはいないと思いたい。

いたとしても、
アインシュタインよろしくスピノザの神ですな。

とにかく、もし、
自分は何でこんなことしてるんだろう、
自分の存在なんて意味がないんじゃないか、
なんて考るのは損だってことです。

それが純粋に哲学的な類のものなら
大先生になって大いに悩んで頂いて結構ですが、
そうではない方向の悩みの場合ってことね。

それでも、そういう自然的な流れだったとしたら
外野から思いとどまらせようとしても
そもそも無駄ってことなのかもしれないけど。


いえね、先日、10歳そこそこ?の小学生が
サラッと自殺してたじゃないすか。

いや、サラッとじゃないかもしれないけど
そんな年端もいかないような子供が
何をそんな悩むことがあるんだろうかと。

てか、10年そこそこの人生で悩む要素があるの?

そのうち5歳までくらいなんて
まだ物心ついて、ようやく何か考えられるかな
って程度の精神じゃないか。
としたら、実質まだ5年かそこらの人生ですよ。

そんなのをみてると、思い詰めるって感じではなく
本当に、何かもう死ねばいいや
みたいな感覚でいる人が多くなってるのかなと
そんな潜在的な?空気を感じる。

とにかく、今子育て中の親御さんは
子供しっかり見といてやらないといかんですね。


しかし、今朝の夢(?)は
もうちょっと長いこいと突っ込んで見られてたら
何か悟れた気がするんだ。

(気のせいです)

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June 26, 2008

カルテジアン劇場

アナゴさんって20代なんですってね。
ショック。

今日の帰りの電車は結構空いておりました。
これなら妄想できる余裕もあるってもんです。
(あっちの妄想じゃないよ。あっちってどっちだ。)

電車が揺れると、つり革も揺れる。
人も揺れる。人が持っているバッグなんかも揺れる。
みんな同じ方向に揺れる。

まぁ、当たり前です。

でも、人は揺れようと思って揺れてるわけじゃない。
つり革もそんな意思を持っているわけない。
乗ってる電車が揺れるから、みんな同じように揺れてると。

あーこれって、
もしかして世の中全体にも同じことがいえるんじゃないかなー
なんて思ってしまったのが今回の妄想の始まり。


もともと1つだった素粒子(量子)が分裂して2つになったとき、
その2つの素粒子はお互いに無関係になってしまうのでなく、
その後もずっと関係を保ち続けるという現象があります。

それを量子のエンタングルメント(絡み合い)というんだけど、
端的にいうと、素粒子はスピンという回転要素を持っていて、
2つに分かれた粒子は、お互いにスピンが必ず逆になる。

つまり、片方が右回りだったら、
もう片方は必ず左回りになってると。

生き別れの2者が逆の性格になること自体は
ふうん程度なんだろうと思うけど、
これがどんなに離れていても常に必ず逆、
というところがミソなんすね。

素粒子AとBが生き別れの2者だとするなら、
Aが右に回ってるときは、Bは必ず左に回っている、
言い方を変えれば、
Aが右に回っていることを知ったとき、
同時にBが左に回っていることも知ることになる、
ということ。

これは量子コンピュータの原理にもなるんですけどね。

でね。

そんな性質を持つ素粒子って、
あらゆる物質、物体を構成している粒々じゃないですか。
星だって、生物だってその素粒子でできている。
当然、人間もそうです。

その素粒子が、
元々1つの素粒子であったところから分かれたものなら、
それは片割れの状態と逆の状態を取り続けている、
ということに。

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May 11, 2008

カルマ

どうも、“ぷらす”です。
秘密スーパーひとし君プロジェクト進行中です。

ああ、私が最初から存在していなければ
どんなに私の人生楽チンだったか。

という議論はパラドックスめいてるけど、
間違っちゃいないよね。

あー違う違う。そういう意味じゃない。
こんなこと書いたらプロバイダに消されるのか。

“自分の存在しない世界”というのは
一体どんなものなんだろうかと考えたことはないですか。

私だけですか。そうですか。

いえ、自分がいようがいまいがお構いなしに
この世界はずっと続いているんだろうし、
それは過去も未来もそうなんだろうけどね。

客観的に考えればそうだけど、
いざ自分が生まれ出る直前、直後、或いは消える直前、直後、
そこで主観的に見た世界というのは、
どう立ち上がり、そしてどう消えていくんだろうな、と。

生まれるというのは、
胎児でいる状態から、おぎゃあと外へ出る瞬間、かな。
消えるというのは、死に際、で、死んだ後か。

そこに自分(という主観)はいるのか。

道理的に考えれば、そこに自分はいない。
こいつがさっぱり想像つかんのですよね。
いないんだから、想像しようもないんだけど。

そもそも自分という存在が、
なぜまさにこの自分なんだろうか?

物理的には、人間をはじめとする地球上の生物ってのは
結局のところ水とタンパク質の塊なのよね。
そんなものが意識や自我を持って
どうやら自立的に行動してる(ようにみえる)わけです。

実に解せん。

まぁそんなことはもう何百何千年前から
いろんな哲学者や科学者が悩んできたことで、
今「それはこういうことなんだよ」とか私が思いついたら、
それこそノーベル賞どころの騒ぎじゃない。

ま、そりゃいいんです。

いいんかい。

てか、今日明日に答えが出るもんじゃないので
棚に上げておいて。

例えば、仏教の考え方に
“輪廻転生”というやつがあります。

端的にいえば、霊魂というやつは消えることなく続いていて、
そいつがいろんな生き物にリサイクルされる、というもの。
意識や自我というのはその霊魂についていて、
その霊魂が物理的な生体に宿る、というわけですな。

その真偽は置いくとして、
「次、生まれ変わるなら、また人間がいいな」
なんてことをよくいうよね。

いわないか。

いうんだよ。

というより、次も人間であることが前提になってること多々。
次は女が良いとか、男が良いとか。
もっと美人にとかスマートにとか、
カッコよくとかイケメンにとか。
(狩野じゃないよ)

でも、生まれ変わったら
犬になってるかもしれないし猫かもしれない。
ゴキブリやハエかもしれない。
タンポポかもしれないし松ぼっくりかもしれない。
そのへんの石っころかもしれない。

大抵そういわれたら、そんなのいやだ、
と思うんだろうけど、
それは今が人間だからなんだよね。

犬になったら、それはそれで
犬である自分が全てなのであって、
それ以外の存在になることは考えられない。

それとも、犬は犬で人間に生まれ変わりたい、
なんて思ってるだろうか。

いや、犬はそんな哲学的なこと考えないか。
擬人化したらってことで。

逆に、人間よりもっと高等な知性を持った異星人とか、
星や空間や宇宙の意思的なものが存在するとするなら、
彼らから見た人間というのは
おそらく人間から見た犬や猫程度の存在なんじゃないか。

でも、そんな存在がいるとしても、
人間はそういう存在に生まれ変わりたいと思うだろうか。

やっぱり人間じゃないか。

それって、
人間であることで得られる自由度や楽しみといったものが
次の人生にも期待されているからなんだろう。
そして、それ以上のことなんか想像できない。

だから、次アメンボに生まれ変わっても、
それはそれでアメンボの人生を送るだけの話なんでしょう。
チクショウ人間が良かったよ、なんて思わない。
てか思えない。

行いが悪いと神様に人間じゃないものに変えられるよ、
なんていう教え方は、
人間じゃない存在に非常に失敬である。

人間って、傲慢だよね。基本的に。


んーメメント・モリ。


最近、なぜかお茶犬の曲が脳内BGMになってます。

意味?そんなものはない。

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April 22, 2008

我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこへ行くのか

どうも社会がおかしくなってきているのか、
常識が変わりつつあるのかわからないんだけど、
さっぱり理解できないことが起こってる。

誰でもよかったとかいって人を刺してみたり、
死刑になりたいといって人を殺してみたり、
走ってる新幹線から飛び降りてみたり。

この3件だけとってみても、
何でそんなことをしようという思いに至ったのか、
従来の常識的な観点からでは
その動機がさっぱりわからんでしょう。

このところ社会問題として
心の病気というのが深刻化してきてるけど、
その現れかもしれんですね。

実際、人間の生活環境はここ数年で激変していて
体を動かす機会があまりなくなってる。
ただ、頭だけは極端に使う。
そういう事態は歴史的にあまり経験してなかったことで、
生物としての心身バランスが悪くなってきてるのか。

科学技術が発達して、便利な移動手段もできて
極力自らは動かない方向に進んでますよね。
人間って。

でも、もともと動物は動いてなんぼのモノだったはず。

それが動かなくても良くなってきている、というのは、
生物としてはあまり良くない方向なのかもしれない。

文明の発達は、知的には進化しているけど、
生物としては、動物としては、実は退化している。
どう見ても人間の運動能力は
他の動物に比較して劣ってますからね。

人間は、一体どこを目指しているのか。

ゴーギャンの絵のタイトルにもそんな文句があるんだけど、
人間は、このままこの道を進んでいくと
いずれ生物、動物でないものになるんじゃないか、
という気もしたりね。

その方向と、今時点で動物である人間の内側で
変な矛盾が発生しているんじゃないか。
動物でない方向に進もうとしているのに、
実際は人間は動物であり、
今のところそこからは絶対に逃れられない。

そのへんの歪みが
社会問題の一片として見えてきてるんじゃないか。

じゃあ生物としての人間に立ち返るべきか、
といえば、その方向は究極的にはサルに戻ろうという話で、
それは違うんじゃないかという気もする。

人間は、このまま頭でっかちな何者かに向かって
突き進んでいく運命なのかもしれない。
実際、もう後戻りはできなさそうだし。


そのへんの歪みというか
方向性と現状との乖離による亀裂みたいなものが、
今社会のあちこちに現われてきてるのかもね。


といって、人殺しOKといってるわけじゃないので。

ダメよ。殺しちゃ。

常識が何だか分からない昨今は、
利害関係で考えていかなきゃならないのかね。
とりあえず、人を殺して良いことはないんだぞ、と。

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March 24, 2007

シャム双生児

手塚治虫の「ブラックジャック」の一話で、
頭蓋結合のシャム双生児が登場するものがあります。

携帯で1話ずつBJが配信されるというサービスを利用してて、
今週分のBJがその話題だったんですけどね。

シャム双生児(結合双生児)というのは、
本来身体が分離して双子で生まれてくるはずだったところが、
体の一部がくっついたまま生まれてきてしまった子供のこと。

私は1981年に生まれたベトドクの話題は、
今でも結構記憶に残ってますけどね。(今は25歳か)

シャム双生児自体は年間200例ほどあるというけど、
(これ予想以上に多いんだけど)
頭がくっついて生まれてくる例というのはあまりない。

BJのその話は、
脳が2つで体が一つという状態の子供の分離手術をする、
というもの(切り取られた方の脳は死ぬしかない)。

それで、この子供は、
お互い頭の中で意思疎通をしているんだけど、
実際これどうなんだろうなぁ、と。

まさに、自分会議。

身体は同じだけど、脳が別ということは、
認識としてはお互い他人なんだろうか。
でも、意思疎通は結合した脳内でできちゃうわけだから、
認識は同じであり、お互い自分だとみるべきか。

実際の頭蓋結合双生児の例はどうなんだろうと、
いろいろ調べてみてみたけど、
どうも大抵は知能が未熟なうちに死に至っていますね。
或いは、寄生型という形で、
片方の脳は人格として機能していない状態(?)だったり。

ただ、脳でないにしろ、
体の一部を共有しているという状態は、
自分の境界がどこにあるのかということを考えると、
何か不思議な感じがします。

例えば、兄が手で氷に触ったら、
その手を共有している弟も「冷たい」と感じるんだろうか…。

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March 14, 2007

円周率の日

3月14日は円周率の日だそうです。
円周率はGoogleで「pi」を検索したら出てきますね。

最近、いろんなところで、
いろんな形で数に関する議論をすることがあって、
「数って一体何だろう」なんて、
しみじみ考えたりしてたりします。

いうまでもなく、
モノを1つ2つと数える道具が数なわけですが、
かのピタゴラスにいわせれば
「数こそ万物の真理なり」だそうで、
この世の中というのは、
数理によって支配されているというのですな。

円周率というのは、
そもそも、円の直径と円周との比なんですが、
(だから「円周率」なんですけどね)
この3.14159265……という数が、
円周と関係ない場面でも登場してきたりするから、
なかなか神秘的であります。

物理学の教科書を開けば、
周波数や距離、面積やエネルギーを求める式にも、
このπが登場してくる。

まぁそれは、
いろんなものを回転体の運動とみなして計算すると、
いろいろと都合が良いということなんだけど。

極端な例で、クネクネと曲がりくねった河川で、
源流から河口までの直線距離と実際の長さを測って比べると、
その比率が大体そのπに近いというんですな。

(河川の実距離は最短距離の約3倍強らしい。ホントか?)

そんな話をきくと、やっぱり「数」の世界というのは、
この現象世界を牛耳ってるんじゃないか、
とも思えてきたり。。

残念ながら私はあまり数に造詣は深くないんですが、
世の中には数を直感でわかる(っぽい)人ってのもいるようで。

ピタゴラスもそうなのかな。
あと思い浮かぶのはフォン・ノイマンとかガウスとか。

ガウスの少年時代の有名な(?)エピソードで、
こんなのがありますね。

当時のガウスの先生が、やかましい子供たちを黙らせるために、
「1から100までの数を全部間違いなく足し算しなさい」
という問題を出したと。

先生はそれでしばらく正しい解答は出ないだろう、
と、何度も計算にチャレンジする子供たちを想像していたら、
ガウス少年は一瞬にして正解を突きつけたと。

彼は一体どうやったかというと、
1+100=101、2+99=101、3+98=101、という具合に、
両端から足していけば、その半分まできっと101だろう、
と考えて、101×50=5050 と導出したのですな。

これはどんなに大きな数についてもいえる。
奇数の場合は、1でなく0から加算すれば良い。

頭の柔らかい大人なら、
そういう法則性もちょっと考えれば思いつくかもしれないけど、
それを、少年ガウスはただの一瞬で見抜いたってこと。

こういう頭の構造をしてる人ってのを、
「天才」というんだろうなぁ。。

(人の頭は、絶対平等にはできてないね。)


ちなみに、3月14日は、アインシュタインの誕生日でもあります。

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