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February 27, 2007

買っちゃった

先週末に買った逆転裁判(DS)が今さら面白くて、
推理小説を読んで夜更かしをするという、
時代遅れな主婦さながらに寝不足の月影です。

こんばんは。

いや、ホント今さら…。

先週末にね。
相変わらずWii目指して開店時間に店にいったけど、
やっぱり入荷がなかったわけです。
(入荷は土曜じゃないってオチなのかなぁ。。)

あんまり悔しいんで、
久しぶりに何かゲームソフトでも買って帰ろうと、
衝動的に思い立ったのですな。

ひさびさにゲーム陳列棚の前に立つ私。

実は、FF3やりたさにDSを購入したのですが、
その後買ったゲームといえば「ぷよぷよ!」のみ。
(しかもこれバグってる。)

つまり、FF3とぷよの2本しかソフトがないという、
せっかくのDSが持ち腐れみたいな状態だったので、
そろそろ何か買っとこうとは思ってたわけですが。

小、中学生くらいまでの私なら、
ゲームのラインナップを前にしたらトキめいたもんです。
でも、なかなか親に買ってもらえず涙をのんだと。

もう今はお金も自由に使える状態になって、
買おうと思えばいつでもどれでも買えるというのに。。
あんまり盛り上がらない。寂しいもんです。

いや、多分これは、
やりたいと思うタイトルがないだけだと思うんですが。
子供時分は何でもかんでも面白そうに見えたけど、
ある程度いろいろやると、自分の好みが出てくるわけで。

Wiiなら、ゼルダとかファイヤーエンブレムとか、
結構あるんだけど、何せハードがない。。

しかし、何か買うと決めたからには何か買わないと。
もうここまできたら、それは義務。

とりあえず、無理やりトキめいてみる。

おーDQMあるぞ!なんかACぽい新作も出てるな?
脳トレやクイズものもいっぱいあるぞ!
Newマリオ?こんなのあったんだっ!
オモシロソー。。。

でも、DQMモンスター育成メンドイし。
ACみたいなゲームをDSでやろうとも思わないし。
脳トレとか流行に乗るみたいでイヤだし。
マリオはもう今は上手くできんだろうなー。。。

 ・・・・・

安いのでいいや。安いの。何かないかな…?
(もうやっつけになってる。。)

で、目に留まったのが「Best Price!」のラベルがついた
逆転裁判(多分1)」だったわけですな。
他のソフトが軒並み4000~5000円くらいだったんだけど、
これは2800円。

確かこれ、昔大分流行ってたみたいだし、
ハズレってことはないだろう。

…と思って買って遊び始めたら、これが止まらんのです。

オモシレーッ!

話はすごいありきたりなものだと思うんだけど、
何でか面白い。何でだろ。。
ミステリーとかあんまり興味なかったんだけど。

食わず嫌いなだけだったのかな。。


あ、あと、携帯も新しいの買っちゃいました。

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February 23, 2007

プレシオスの鎖

ある日、この宇宙の全てを知っているという神の使いがやってきました。

 「キミは何でも知っているんだね。」
 「そうさ。」
 「じゃあ説明してくれ。この宇宙というのはどうなっているんだい。」
 「……うーん……、困ったな。」
 「なんだ、神の使いのくせに知らないの。」
 「知らないんじゃない。人間の言葉で説明できないんだ。」
 「じゃあ、人間の言葉じゃなければどうなんだい。」
 「それなら、キミも知っているじゃないか。」


この「知っている」、「知る」ということについてなんですが。

「知覚する」、「記憶する」、「理解する」という3つを、
まとめて「知る」といったりするのだけど、
実際私たちが求めているのは、最後の「理解する」ことですね。

「知覚する」というのは、
何らかの情報が、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚という、
いわゆる五感によって感覚されること。
(五感以上の感覚もあるかもしれないけど。)

これは外界との物理的なインタフェイスですね。

「記憶する」というのは、
何かを経験するということで、その経験が記憶に残ることで、
二度目以降に同じものに出会ったときには、それが記憶にあるので、
それを既に知っている、ということになると。

で、最後の「理解する」というのが、
上のくだりで訊き手が求めていたものでしょう。

使徒は全てを知っていても、
まずそれを「理解できる」言葉にしなければならない。
仮に言葉になったところで、
それを問う側が自分の言葉としてつかみきれないと、
それについて理解したことにはならない。

実は、私たちは「知覚」して「記憶」まではしている、
つまり「経験」はしているけど、
論理的な「理解」まで到達している知識というのは、
驚くほど少ないと思うんですよね。

例えば、水は酸素と水素から構成される、
ということを私たちは知っています。

でも、そのことは、先人が発見したことを、
学校で習ったり本で読んだりして知っている、
つまり、知識として(記憶として)知っているのであり、
水が水素と酸素からどういうふうに成り立つのか、
どういう法則や条件のもとで水たりうるか、
というところまで論理で(言葉で)は理解してないんじゃないか。

「水」ということたった一つとっても、
それを説明によって理解を得るところまでいくには、
相当の努力が必要なのだという話。

しかし、言葉を尽くさなければ、
私たちは既に「水」というものを知っています。

それは、水素と酸素から成っているなどということを知らずとも、
ただ「水」ということを見て、それを経験すれば、
「これが水である」ということを一発で理解します。
(論理でない、論理を超えた「理解」)

仮に、水というものに出会ったことのない人がいたとして、
(そんな人は実際にはいないけど。)
その人に「水」とは何かを説明しようとしたときに、
さて、どう説明してやろうか、という問題。

これと同様に、使徒は私たちに宇宙をどう説明するのか。

ただ、私たちは宇宙というものに出会ったことがないわけではなく、
むしろ、私たちは宇宙の中にいます。
(外だったらどうしよう……。まぁ、それはないとして。。)

というところでは、水を知らない人に水を語って説明するよりは、
(宇宙を経験している)私たちが宇宙というものを「知る」、
そして論理的に「理解する」というところに至るまで、
幾分かのアドバンテージはあるんじゃないかと。

ここで、こんな一節。

 ジョバンニは、自分というものが、自分の考えというものが、
 汽車やその学者や天の川や、みんないっしょにぽかっと光って、
 しいんとなくなって、ぽかっとともってまたなくなって、
 そしてそのひとつがぽかっとともると
 あらゆる広い世界ががらんとひらけ、あらゆる歴史がそなわり、
 すっと消えると、もうがらんとしたただもうそれっきりに
 なってしまうのを見ました。

 「さあいいか。だからおまえの実験は、
  このきれぎれのはじめから終わりすべてにわたるようでなければならない。
  それがむずかしいことなのだ。
  けれどももちろんそのときのだけでもいいのだ。
  ああごらん。あすこにプレシオスが見える。
  おまえはあのプレシオスの鎖を解かなければならない。」


宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の一部なんですが。

最後の「プレシオス」というのは、
プレアデス星団(M45)のことだといわれています。

銀河鉄道の旅はここで終わってるのだけど、
その向こうに見えている「プレシオスの鎖」から先は、
キミたちがレールを敷いて近づいていくんだぞ、
ということなんでしょうな。

「知覚」と「記憶」(経験)というところに、
「理解」へつながるブロックが散在してるんだろうとは思うけど、
なかなかそれがひとつにつながらないわけで。。

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February 22, 2007

閉鎖空間のマナー

「当社比」という言葉を最初に使い始めたのは、
一体どの会社だったんだろうということを考え出すと、
夜もおちおち眠れなくなる月影です。

こんばんは。

嘘です。眠れます。ぐっすり。
どうでも良いですね。

どうでも良いか悪いかでいえば、悪い話で、
電車の中で放屁するやつがいるのです。
音のしないやつ。

電車の外でやってもらう分には一向に構わない。
だけど、電車の中という密閉空間というのは、
空気も人間も逃げ場がないのであって、
強制的に同居させられるわけですよ。

それをしたら、
どういう状況になるか予想できんのか?と問いたい。
そんなに我慢できないのか。
できないなら、どうして降りてしないか。

エレベータにおけるそれも同様だけど、
電車の方が、乗っている時間が長い分凶悪です。

誰かがそれをしてしまうと、
音がないだけに、まず誰が犯人かわからない。
即ち、そこに乗り合わせている全員が容疑者になる。
誰の顔を見ても「オマエか」と疑いの目で見てしまう。
それは同時にこちらもそういう目で見られているということ。

まさに気まずい空気ってやつです。

特に、朝の低血圧なときにやってくれるやつがいて、
もう勘弁してもらいたい。

ちゃんと用を足してから出かけようね。

(これを読んでるのがお食事中だったらすみません。)


関係ないけど、
ダルビッシュさんがファンに怒り心頭だったらしい。

ダルビッシュがファンのフラッシュに怒る
(Yahoo!トピックス)

この気持ちわかります。

やめろといってるのにやめないパターンって、
たいていの場合、他にもやってる人がいるから自分もやる、
即ち、人がやってれば自分もやらないと損という根性ゆえで、
私はこれが実に気に入らないのですな。

こういう人ばかりだと、ルールやマナーがあっても守られない、
つまり、いつまでたっても状況が改善されないということになる。
例えば、地球温暖化がどんどん進むのも、
実は人のこういう利得本位の根性があるからでしょう。

フラッシュやめろといってるんだから、やめようよ。

ゴミの分別をするだけで、
温暖化ガスの排出をかなり抑えることもできるのだよ。

地球人は今のところ地球以外に逃げ場がないのだから、
事実上、地球は電車の中と同じ閉鎖空間なのですよっ。

(ということは、複数犯の可能性も。。。)

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生命宇宙の世界(11)

みなさん、こんばんは。

今回は、ライフスフィアの考え方で宇宙をみた場合に、
今までの宇宙観とどう違うのかについて考えていきます。

現在の宇宙論の大まかなシナリオは、
量子ゆらぎから宇宙の種が生まれ、それが急激に膨張し、
火の玉宇宙(ビッグバン)を経て、
現在のような姿の宇宙になったのだ、というもの。

最新のWMAP(背景放射観測衛星)の観測データの分析で、
宇宙の年齢は約137億歳であることが判明しています。

そして、宇宙はその137億年で完結しているのでなく、
今もなお進行形です。

ところで、進行形、とは、どういうことでしょうか。

それは、時間が過去から現在、そして未来へと流れており、
その流れに従って事象が原因から結果へ移り変わり、
その結果がまた新たな事象の原因となる、
この繰り返しが延々と続いている、ということでしょう。

このことは改めて説明するまでもなく、
私たちが過去を記憶していて、その上で現在を経験し、
それがまた過去の記憶となっていくことから、
この一方向的な流れを持って時間の経過と認識し、
これはまず何よりも先んじて認めるべき理である、
と感じているはずです。

実のところ、私たちの持っている“私”という認識は、
時系列の記憶と経験に由来するところが大きくて、
それがなければ、たった今この世に生まれた状態になり、
まず“私”ということすら認識することもできないでしょう。

これは宇宙自身も同様で、火の玉から始まり、
そこから表出した様々な事象を“経験”し、
それをいろいろな形で“記憶”しているからこそ、
現在の宇宙のアイデンティティがある、といえます。

“経験”とは、物理現象そのものであり、
“記憶”とは、宇宙背景放射であり、宇宙の大規模構造であり、
星や銀河であり、それを形成している物質や力、
そしてエネルギーや時空それ自体です。

その記憶を、私たち人間が観測によって見つけ出して、
その経験を探っているのが、現在の宇宙科学であるのですな。

そしてその記憶は、そのまま人の記憶としても残っていく。

人の記憶というのも、結局のところ、
私たちの脳の中で起こっている物理現象の結果です。

人はよく、自分たち人間というのは、
地球という閉鎖空間で誕生した特別な知的生物だと考えますが、
人を構成している物質というのは、
過去に宇宙空間で生成された星やチリの成れの果てです。

つまり、私たち人間という実体そのものも、
宇宙にとっては記憶の一部であるということになる。

記憶というのは、人の脳内でのみの現象と考えるのではなく、
宇宙全体の記憶もあるのだ、と考えた場合に、
私たちの記憶という現象(その原因を含んで)は、
宇宙の記憶自体を構成しているということになってくると。

即ち、私たち自身が宇宙の構成要素となっている、
ということです。

このことは、私たちをの身体を構成している事物についても、
同様のことがいえます。

私たちを構成している、炭素、水(水素と酸素)、鉄、
リン、カルシウム、マグネシウムなどの物質は、
さらに分解すると陽子や中性子、電子などの素粒子となり、
それらもさらに分解することが可能だとされています。

それらのモノや力たちは、
何も私たちの体を成立させようとしているわけではなく、
それぞれが持つ性質や機能に従って振舞っているだけです。
その結果として人間という生物が表象して、
その人間(の脳)では記憶なる現象も発現している。

それらの物質、素粒子、そしてさらにそれらを構成するブロックは、
相変わらず宇宙の構成要素です。

はっきりとした法則性はみえないのだけれど、
とにかく、何かの構成要素が別のものの構成要素になっていて、
それがどこまでも似たような構造になっていて、
同じような役割と属性と現象を伴っている、その連続である、
というような姿が、ここに漠然と感じることができませんか。

そして、その現象に“端”はないのであり、
構成要素が、自らの構成要素に帰ってくるような構造をあてると、
始まりと終わりの問題を心配しなくてもよくなります。

137億年前に宇宙が誕生した、というのは、
人間などの生物でいう誕生の時期であり、
それを生んだ母体は当然それより前からあるわけですね。

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February 17, 2007

ケータイ

最近、週末(土曜)はなるべく早起きして、
街の電気量販店へ出かけてます。

Wiiが欲しいわけで。

でも、先週、先々週とどこの店もWii入荷がなく、
無駄足に終わってました。

で、今日もヨ○バシカメラへいってみたら列ができていたので、
「お、これは入荷あったか?」と思って、とりあえず並んでみたら、
DS Lite の列だった。。。(DSは持ってます。)

ふー。。。

せっかくきたので、同じ店で携帯の新機種でも見繕ってみる。

私の持っているやつは何世代か前のやつで、
けっこう古いです(W21系)。

そろそろ替えてもいいかなと。

しかし、どうやら今は、
機種がW4x系から最新のW5x系に切り替わる節目らしい。
どうせ買うなら最新型の方が良いんだけど、
W5x系はまだ機種が全部出揃っていないっぽい。

私が今持ってる機種がS社製なので、
新しいのもS社製が良いかなぁ
(操作方法とか変わるとメンドイので)
と思ったんだけど、
S社のW5x系はまだ発売されてなかった。(これ

W4x系も見てみたんだけど、
どうも形がメカメカしていて(どんな表現だよ)、
私の好みじゃない。(これ

ということで、結局何も買わず。

しかし、最近はもう“ケータイ”は電話じゃないね。

メールできるし、Webも見られるし、
音楽も聴けるし、テレビも観られるし、
カメラもついてるし、ICカードまで内臓してる。

しかも、そのどの機能も、
専用機の劣化機能というにはあまりに高性能。
ふつうに使う分には専用機なんかいらないですね。

つまり、ケータイ1つあれば、
デジカメやWalkmanや携帯TVなんかもういらない。

将来、PCも携帯くらいに超小型化するのは
(ノートどころか今のデスクトップ並みの性能で)
まぁ必然だと思ってるんだけど、
その時期は予想以上に早いかもしれない。

もう2、3年以内とか?

ただ、その場合の問題はインタフェイスで、
私の場合、PCの機能が乗るなら、
何よりもキーボードが欲しいのですよ。

私はいまだに、
ケータイの番号キーで文字を打つのが苦手です。

最近の若者は(という言葉はあまり使いたくないんだけど。。)
0~9のボタンでよくあんなパッパと文字が打てるものだと、
いつも感心してしまいます。

でも、キーボードばかりは、
どんなに小型化しても限界があるわけで。
指で自然に打ち込める程度のサイズでないとね。

これをどう解決するか。

前に何かの展示会で、
机の上にキーボードを投射して(プロジェクタみたいに)、
その投影されたキーを押せるみたいなのがあったけど、
やるならあんな感じしかないのか。

欲をいうなら、“ボタンを押した感”もあるといいんだけど。

フラットな卓面を叩くだけというのは、
文字はちゃんと打ち込まれてるんだけど、
その実感がないので、何か不安な気持ちになるのです。。
(映像のボタンは押すことをアフォードしていない、というか。)

そこらへんは、キレる技術者に期待。


とりあえず私は、W51Sでたら買うってことで。

(Wii も。。)

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February 16, 2007

フォアの実験

ちょっと、これやってみてください。

どうですか。当たってましたか?

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February 14, 2007

神様を考える

本日は雨。

夕刻、駅で公衆電話を使ってる女子高生がいた。
携帯を持ってないのか、忘れたのか、落としたのか。

とにかく、今時分、
“ケータイ”が必須アイテムであろう女子高生が、
あの緑の公衆電話を使ってるという絵が印象深かった。


電車の中で本を読みながら思ったこと。

よくある宗教で信じられている神様は、
全知全能で、完璧で、常に正しい存在で、
全てはその神の意思によってつくられたのだ、
ということになっております。

でもね。

その定義自体が既に矛盾してないか。

“正しい存在”という定義があるなら、
その逆の“誤った存在”もあるということ。

その神様がこの世の全てを完璧に創ったというなら、
そこに誤ったものは存在しちゃいけなんじゃないか。

周知の通り、人間はよく誤る。
ということは、神様は“誤る可能性”を持った存在を許した、
ということになる。

でも、神様は全知全能で完璧なのだから、
人間という自らの創造物が誤ったことをすることも、
あらかじめ知っていたことになる。

即ち、人間のとる行動は全て神様の知っていることで、
世の中は神様の描いたシナリオ通りに動いている、
ということになって、それ自体には誤りはない、
ということになる。(神様は誤らないのだから。)

つまり、
人間の行動は全て神様も了解済みのことであり、
むしろ、それは神様のシナリオに書いてあること、
ということになる。

以上を認めると、どういうことがいえるか。

私が今この文章を書くことも、
どっかの爺さんが今から3分前にクシャミしたことも、
ブッシュ大統領がイラク戦争をしたことも、
人の文明発達によって地球温暖化が進むことも、
全部、神様のシナリオということになる!

と考えると、その神様というのは、
決して人間を道徳的に救うような存在(?)ではなく、
ただ、自らが書いた(人にとって)無情なシナリオ通りに、
世の中の成り行きをつくっているだけである!

そんな神様は、宗教的にアリかナシかでいえば、
ナシなんじゃないかと思うんだけどなぁ。。

だって、信じても救われないんだもん。
(筋書きは最初から決まってるから。)

もっというなら、
その人が神様を信じるか信じないかということすら、
神様が決めてしまってるということになるもんね。

そんな宗教的正義を信じて戦争をおっぱじめる人って、
バカだよねぇ。愚かだよねぇ。

っていうか、そうか。
それも神様の筋書きということになるのだなぁ。。


…などと妄想して、
開いてる本を読んでいない自分に気付くのでした。

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猛暑

今の職場、異常です。

仕事じゃなく。仕事はね。いたって平和。

何がって…。
もう春です。てか、夏です。

あっちぃよっ!
セミ鳴くよっ!

暖房どんだけきかせりゃ気が済むんだと。
とにかく暑いんです。

みんなは暑くないのか?私だけが異常に暑がりなのか?

どうにも甚だ疑問だったんだけど、
今日MLで流れてきたメールを見て理由がわかった。

そこはビルの1フロアの大部分をぶち抜きなので、
かなり広いんですな。
それで部屋の端の方の温度が上がらないんだって。

で、温度センサがフロアの中ほどにあるらしく、
そのセンサにかかってエアコンが止まるから、
寒がりのお嬢が設定温度をアホみたいに上げてるらしい。

そういう部屋の構造上の問題がわかって、
フロア改修の依頼を出しているところだ、
という連絡メールだったんだけど、
そのメールの最後に、

 「ご迷惑をおかけしております。」

と書かれてたのが、
部屋の端にいる人が寒いのを我慢していることに対して、
であったのには納得いかんですよ。

部屋の真ん中にいて汗だくなこっちにも謝れやっ!
(と、ここでちゃぶ台をひっくり返す絵を想像)

私は寒いのはいいんだけど、暑いのはダメなのだ。
席交換して欲しいよ。。
ウォームビズも何ももあったもんじゃない。

つか、だめですよね。こういうの。

クドイようですが、地球はヤバいんです。
温暖化しまくってます。

聞くところによると、
ホントにセミが出てきてたらしいじゃないすか。
ホタルも出てきてたって話もあるじゃないすか。
このままだと、東京は降雪なしに春を迎えそうだって。

暖かくて過ごしやすいですか。
凍結しなければ交通事故も減りますか。
梅の花も早く咲いて風流ですか。

違うんです奥さん。

花が今咲いても、ハチやアブや蝶々がまだなんです。
虫に花粉を媒介してもらえないと、
植物は実をつけたり種をつくったりできないんです。

虫たちが春先に出てきたら、今度は花がないんです。
虫たちのエサが減るということは、
繁殖できないで個体数が減るってことです。

これは花と虫だけのことじゃない。

地球環境(全体)というのは、
そういう微妙な生態系のバランスの上にあるってことで、
それが今どんどん崩壊しつつあるってことです。


花が咲いてキレイだなぁ♪
とかノーテンキなことをいっとる場合じゃないのよ奥さん。


とにかく。

冷え症なのは気の毒だと思うけど、
部屋の真ん中で溶けてる人もいるってことも、
忘れないでください。。

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February 10, 2007

手塚治虫の世界

一生に一度はやってみたいこと。

美容院に入って、
 「どうなさいますか?」
と問われたら、
 「かっこよくしてください!」
と頼むこと。

ええ、いまだに美容院にすら1度も入ったことのない月影です。

こんばんは。

くだらないこと書いてたら日付変わっちゃいましたが、
2月9日は漫画家 手塚治虫の命日でありました。

通勤で渋谷から目白へ通っているとき、
高田馬場駅の発車ベルが鉄腕アトムなのは何でかなぁ?
(宝塚でもないのに)と思ってたら、
手塚プロは高田馬場にあるんだそうで。

鉄腕アトムは高田馬場で描かれてたんですって。
(今まで知らんかった…。)


手塚先生の作品の大きなテーマは、
よくいわれてるように「命」だと思うんだけど、
これは、命は尊いのだ、というよくある話ではなく、
命とは何か?生きるとは何か?という、
常に疑問形のメッセージが強いように思うのよね。

生きるということが絶対でない、
とでもいいたげに、手塚作品の世界では
かなりアタリマエに死というものが描かれています。

その死が意味するものは何だろう。。

死ということを表現してみることで、
反面的に生というものの意味を、
ひいては命の意味を見つけようとしていたのか。

漫画というのは基本的には娯楽だけど、
その娯楽の表現手法を使って命を描いたところに、
(その当時はかなり画期的なことだったはず)
手塚治虫という人の奇才性があると思います。

やっぱりね、命というのは、
生きている以上は、
万人にとっても一生涯のテーマですよ。

そういう普遍的なテーマだからこそ、
今読んでも、そして今後何度読んでも、
そのたびに、まさに今の問題として
その作品に接することができるんだと思う。


しかし、純粋に娯楽モノも面白いんだから、
やっぱり手塚治虫って、天才よね(つくづく)。


(↑最近のお気に入り。)

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生命宇宙の世界(10)

みなさん、こんばんは。

だんだん怪しい世界になってまいりました。
もとより怪しい、という意見には「その通り」といっておきマス。

私は、生命宇宙の「生命」のことを、
ずっと「システム」だといってきました。

これは、生命というのは「モノ」ではなく、
生物に代表されるあの概念でもなく、
宇宙全体を包括しているそのようなもの全体、
ということを強調する意味でシステムといってきたんですが。

どうもこの考え方自体は、
業界(?)では結構当たり前な考え方のようです。

で、今ここでいわんとしていることは、
「生命」ではなく、「生命宇宙」であるのだよ、ということで。
つまり、「生命」と「宇宙」は不可分であると。

でも「生命宇宙」というと、やっぱり2つに分けて考えてしまうので、
ちょっと格好よくカタカナで「ライフスフィア」といっておきます。

つまり、

 宇宙全体はライフスフィアであり、
 その構成要素もまたライフスフィアである。

例えば、オートポイエーシスという考え方があります。
(“APS”と略しておきます。)

生命の構成要素同士の有機的なつながりを、
自己組織化するようなシステムの定義(?)だったと思いますが、
(正確な意味については保証しかねるけど)私の解釈を書けば、
生命というのは、自分で生まれて自分で自分を作り出す、
それ故に生命の構造はどこまでいっても同じ構造になっている、
という話だったと思います。

うへぇ。何のこっちゃ。

要は、生命というのはどこまで切り刻んでも生命なんだゾ、
(そういうメカニズムの金太郎飴のようになっている)
ということだろうと。

で、これを突き詰めて論ずるときにややこしいことがある。

それは、創造者と被創造者が同じである点で、
これがこの論説のキモでもある“円環的”構成の説明の難しさ、
ということになってきます。

とにかくここは、創られるものと、それを創るものは、
同じ要素であり、同じシステムである、と考えてくださいまし。

人間から生まれてくるのは人間だ、ということです。
(こう書き下しちゃうとアタリマエだ。。)

で、ライフスフィアもAPS的であり、
(とりあえずここでは、APSそのものとは断言しないでおく)
ライフスフィアから生まれるものもライフスフィアであり、
それはライフスフィアと同じ属性と構成である、と。
ここで、生む側と生みだされる側は区別しません。
(ここがややこしいところ。)

それをどうやって説明するか、です。

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February 08, 2007

子供を産む機械

暖かいというか、むしろ暑いっす。
(暖房止めていいよ、今のオフィス。。)

さて、このところ毎日のように聞いている言葉。

 「女性は子供を産む機械」

例の厚生労働大臣の発言であります。
もう(裏)流行語大賞だよね。

ここまで大事(オオゴト)になってるんだから、
いっそ大臣やめればちょっとは気が楽になるだろうに。

まぁ、そんなあたりの話はぶっちゃけどうでも良い。

ちょっと思ったのが、
この言葉のどこが問題になってるのか、という点。

「女性は子供を産む」と、
ここまでは問題ないように思える。

とりあえず、男は子供を産まないんだし。

ただ、最近は、
「アタシは子供なんか一生産まないヮ!」
という女性も多々見られるようになっているので、
ここですら認められない、というケースも多そうであると。

であるので、上の文章の裏を返せば、
「子供を産まない」=「女性ではない」
という意味になってしまって、
それは、子供を持たない女性にいわせれば、
非常にけしからんという話になると。

さらに、それを強調する極めつけに、
「機械」という言葉がきている。

機械というのは、「それしか能がないモノ」
の象徴としてしばしば使われる表現なので、
この場合もそれに該当する意味で捉えられているのだろうと。

思うのは、この文面は、
そう解釈すればそういう風にもとれるけど、
普通に意味が通らない文章でもない、
ということ。

有性生殖生物の雌が子を産むのは事実だし、
生物そのものは有機物でできた機械であるともいえる。

例えば、これと同じ文面が使われたのが、
生物学かなんかの学会やシンポの場であれば、
そのままサラリと流されたはずのものじゃないかと。

今回は、少子化という社会問題に際して、
コトもあろうに厚生労働大臣がそんなことを言ったものだから、
オマエはそんな気持ちで政策に臨んでいたのかゴルァ!
となってヤイノヤイノ言われる騒ぎになったんだろうと。

何がいいたいかというと。

言葉や文章というのは、それが全く同じ文面であっても、
解釈や理解のされ方が大きく異なる場合があるのだということ。

つまり、言葉それ自体が持つ意味だけでなく、
それが発せられた背景や前後の文脈が重要なこともある、
ということなんですな。

しかしね。

例えば、同じ大臣が、

 「男性は働く機械」

とかいう発言をしたとしても、
これは多分、あまり大きな問題にはならんよね。

(なんか、不条理?)

まぁ実際、「子供を産む」ということは、
それだけでも十分偉大だと思いますけどね。

「子供を産む機械」なんてもの、
つくろうと思っても(マトモには)つくれませんから。

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February 04, 2007

年貢の納めどき

また騙されたくさい。

先月、「新聞を1ヶ月試読してください。試読は無料です。」
といわれたので、タダならと承諾したら、
今月になってもまだ配達されてくるのはコレいかに。

止めて貰うか。。

最近はネットで大抵事足りてるから、
紙媒体の新聞なんて基本的に読まないもんね。
(今はせっかく配達されてくるので読んでるけど。)


さて、遂にこのときが来てしまいました。

昔でいうなら、百姓が汗水垂らして働いた米を、
お代官様に献上せにゃならぬと。

それを今風にいうと「確定申告」。

こんなに納めても、
私はお役所にこれだけのことをしてもらってるのか?
と、甚だ疑問なんですけどね。

日本の所得税の税率は、
所得額によって変化するんだけど、大体10~37%。
所得が330万を超えると20%、900万を超えると30%、
みたいな具合ですね。

実際は特別控除額というものがあって、
例えば、年間1000万円の所得がある人の場合、
その3割は300万円だけど、
この場合の特別控除は123万と定められているので、
177万円が支払う税金ということになる。

それでも多いよなぁ。。

なんて思ってたら、
フィンランドとかデンマークなどの北欧諸国の税率は、
なんと50%なのだそうで。

つまり、稼いだ額の半分を国に持っていかれる。

それで不満が上がってないかといえば、
ほとんどの国民はこの政策を支持してるんだそうで。

北欧は福祉先進国とよく呼ばれていますが、
とにかく、国民が生活に不安を覚えることがない、
というところが大きいらしいです。

高齢者や障害者のケア体制も万全で、
全部国の予算で面倒みられるようになっている。
退職してもその後の生活を年金で全面的に賄える。
学校などにタダで入学、就学できる制度もある。

それで問題が全くなくはないと思うんだけど、
ここで大事なのは、

 この税金が何に使われているのか

という透明性があるかどうかじゃないかと。

北欧諸国の場合は、使途がしっかり見えていて、
その通りに国民の生活に還元できているところで、
その政治も高い支持を得ているんでしょう。

日本の場合、それがないもんね。

予算案の審議とか見ていても、どうもよくわからん。
それで私の生活はどう良くなるんだ?

国民も、個々は結局自己中心なんです。

自分の生活や興味に直接関係ないことに、
自分の払ったお金が使われることが不満なんです。

まして、自分の払ったお金が何に使われるかわからない、
というのは、不満というか不信につながるわけで。。

とはいえ、日本は日本の文化があるので、
北欧諸国を見習ってああいう風にしろとはいわないけど、
とりあえず、税金は「年貢」ではなく「投資」である、
と思えるような政策なり仕事をして欲しいもんです。

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February 03, 2007

政党は必要ないのか

今日はいつもより寒いぞ、といわれてたんだけど、
あまり寒い気がしなかった。
やっぱりおかしいよね、最近の気候は。。

年末に大分張り切ってたように思われた客先が、
年が明けて何だか意気消沈気味。

新しい会社までつくるぞーっと言ってたと思ったんだけど、
それをいってたのは社長さんらしく、
役員たちはどうも乗り気じゃなさげ、というか。

何だそりゃ。

おかげで最近はすこぶるヒマであります。
この状態に慣れてしまうと危険なんだけど。。

今日も早めにあがって、帰ってテレビをつけると、
いきなり細木数子の顔gぁFack!!氏n・(自粛)

即チャンネル変えたら、太田総理のやつやってました。

今日のお題は「政党を廃止」という法案。

そうだよなー。政党なんてそもそもいらんよね。
太田さんは正しい。

と、最初は思ったんだけど、
結論として、やっぱり必要だね。。

いや、無所属議員に比べて、
政党所属議員というのはアホみたいな優遇を受けられて、
(政治献金を党で受けられるとか、補助金をもらえるとか)
そういう優遇はいらないと思うんだ。

政党が必要な理由はいろいろいわれてたけど。
これは独裁政治を防ぐためだとか、
政党内で予め議論しとかないと長引きすぎるとか。

でも、私が一番懸念したのが、
議員同士の馴れ合い、ですね。

議員って、何かと社会的優遇を受けられるじゃないですか。
JRグリーンにタダで乗れるとか。ホテル代タダとか。
給料や年金もあり得んほど高い。

そんな議員に一旦なっちゃったら、
あとはチンタラ国会出て居眠りでもしてりゃいい。

あとは適当に自分たちに有利な法案作って、
審議するフリして通しちゃって、
どんどん議員の優遇や権力を上昇させていく。。

要は、議員全員が馴れ合ってしまったら、
議会政治なんてものは終わってしまうわけで。

それなら、いくつか政党をつくって、
議員同士である程度ケンカしてもらってた方が、
幾分か健康的ってことです。

政党つくらなくてもケンカなんて普通にするんじゃね?
と思うかもしれないけど、
あまり議員が多いと意見も多すぎて、
だんだん面倒くさくなってくるんですよね。

議論することそのものが。

もうどっちでもいいよ、みたいになってくると、
だんだん国民のためにというよりは、
自分たちの都合の良い方向に収束していく傾向がある。
つまり、議員に都合が良い方向に。

あと、集団でチームをわけると、
最初はそれが形式上だけのものであっても、
だんだんチーム内で結束して他のチームに負けたくない、
という闘争心のようなものが生まれるもんです。

お互い全然知らない子供たちでも、
同じところに数十人集めて、赤組と白組にわけて、
何か対抗競技(綱引きでも玉入れでも)をやらせると、
お互い負けないぞ!という気持ちになる。

人ってそういうものなんだと。

というわけで、政党の皆さん、
血を見ない程度に、大いにケンカしてくださいまし。

でも、政党優遇の制度はやっぱりいらんから、
その議論もしっかりよろしく。

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生命宇宙の世界(9)

みなさん、こんばんは。

 それを述べようとしなければ、それを知っている。
 それを述べようとしたら、それを知らない。

これは、
かつて聖アウグスティヌスが「時間」について表現したものです。

論理で語ることはできないけれど、
そのようなものを実は最初から知っている、ということを、
あえて表現すればこういう言になるのではないかと思います。

私たちは、全てのモノゴトを言葉で表現しようとする。
ということは、言葉で表現できないものは、
どうしても表現できないのか。

とりあえず、何かを見たり聞いたり触ったりすることを考えてみる。
具体的な方が良いので、例えばその対象は“リンゴ”とします。

そのリンゴを見たときの感覚。触ったときの感覚。
私たちは無意識に、その“生”の感覚の中から、
言葉にできるものだけを抽出しています。

「赤い」とか「硬い」とか。

その表現がそういう言葉になった時点で、
それ以外の感覚が切り捨てられてしまっていることに気づきますか。
リンゴには、「赤い」とか「硬い」といった、
言葉に置き換えられる表現にならない感覚もあるでしょう。

実は、科学というのは、
私たちがそれまで表現できなかった領域のものを、
私たちが表現できる領域に持ってくる作業です。

ここで、
“表現できない”ということと“知らない”ということは、
同義ではありません。
表現できなくても、私たちはそれを知っているから。

リンゴの持つ属性のうち、
言葉で表現できるものは「赤い」とか「硬い」などの、
言葉として既存しているものだけですが、
それ以外のリンゴの持つ質感のようなものも、
私たちは感じているはずです。

ただ単に、それを言葉にできない、ということ。

つまり、表現可能にするということを言い換えると、
その感覚に該当する言葉を割り当てること、でしょう。


前回、“生命宇宙論”が理論であるなら、
それは論理的に説明されるものでなければならない、
しかし、世の中には論理にならない事柄もある、
どうすんべ?というところで終わってました。

上記のことを考えると、言葉になっていない表現があるなら、
何か適当な言葉を割り当ててやれば良さそうかも、
と思えます。

実際、科学のさまざまな解明の際には、
新しい言葉が発明され、その物質や現象に名付けられてきました。

全て物質を形成している粒々は“原子”と名付けられ、
それはさらに小さな粒々でできていることが解ってくると、
そのさらに小さいやつは“素粒子”と名付けられ、
粒々では説明できない波っぽい考え方もいるとわかれば、
とりあえずそのような量を持つ“量子”と名付けられ、
以下云々。。。

結局、科学的発見というのは、
同時に、そのモノゴトが命名される、ということです。

名前がつけば、私たちはそれをその名前で、
即ち、そういう言葉で表現することが可能になります。

ならば、“生命宇宙”も、
何か新しい表現(言葉)で説明すればよろしい、と。

しかし、そう単純にはいかない。
言葉で何かを表現するということ自体が持つ、
ゲーデルなどが指摘する欠陥は解決しません。

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